「パパは 地球は守れないけど 線路は守れる。」
娘が、寝息をたてている。
電車のおもちゃをにぎったままだ。もう2歳か。
ネクタイを締め直し、会社に向かう。
私は、線路の調整をする仕事をしている。(以下略)
広告として最も重要なメッセージ部分を省略したので、そこは画像で見てもらうとして。あたしがざらつきを覚えるのはこの冒頭の部分だ。
この人の仕事には頭が下がるし、それを否定したいわけでは決してない。ただ、家族の犠牲をコントラストにしなくても良いんじゃないかと思うだけで。「子どもの寝顔しか見られないけど仕事に心血を注ぐパパ」の企業戦士感は、線路に降り注ぐ朝日のように眩しい、のか? この働き方、引いてはこの広告が成り立つのは、眠れる2歳の娘を起こして面倒をみるパートナーがいるからで(仮にパートナーがいなかったとしたらそれは別の物語になる)、明け方まで勤務して朝日を見ることになるパパは、家を出る時点でネクタイを締め「直す」。居住まいを正す思いでネクタイを整えるということなのか。そもそも作業着でボルトを締めるのに、ネクタイを締めて出勤する必要があるのかも疑問だけど。
ここで「パパ」が「ママ」に置き換わることは、まず考えられない。重労働だからという、職業そのものについていっているのではない。深夜帯しかできない保守点検作業に就いている女性がいるとして、娘が2歳で仕事に復帰していたとして、同じように広告として成立するかというと、多分しない。もう2歳か、という距離感で子どもと接することを、日本社会は「ママ」に許さないだろう。誰が子どもの面倒をみているのかが疑問視され、「ママは 家庭は守れていない」という視線に晒されるのがオチじゃないのか。
考え過ぎかなー。いちいちこういうことに引っかかり、目くじら立てるのは余裕がないせいなのかもしれない。なにはともあれ、この人たちのお陰で線路は守られていて、今日もあたしは無事通勤できるのだ。…東武鉄道に載ってるわけじゃないけど。